矢数 道明先生
矢数 道明先生

1 経歴

漢方復興のため医師となる

矢数道明先生の父は辰之助、母はすて、10人兄弟の4男四郎として1905年12月7日、茨城県那珂郡大宮町に生まれた。13歳で父を失い、早く就職するため水戸商業学校に進み、24年に卒業。しかし千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)を卒業して森道伯氏に就き漢方を修めていた兄・格氏(66年逝去、享年73)の懇請により、先生は弟の五郎・六郎氏と共に漢方復興のため医学を志す。

25年に五郎氏(のち有道。軍医として出征した中国華容鎮で46年に病死)と共に東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に入学。六郎氏も翌年に同校に入学するが、4年次に早逝。先生は2年生時の28年、早くも東洋医道会発起人となる。30年に東京医専を卒業し、東京下谷の一貫堂にて森道伯・格の両氏に漢方を師事、また高槌とり氏と結婚。31年に恩師・森道伯氏が逝去、この年より道明と号す。33年に東京の四谷区箪笥町にて、有道氏と共に漢方温知堂医院を開業された。

森 道伯先生
森 道伯先生

矢数 格先生
矢数 格先生

漢方医学の復興と中国医学の存続に挺身

1935年、古方派の大塚敬節氏、折衷派の木村長久氏、後世方派の矢数道明・有道氏、薬学の清水藤太郎氏、針灸の柳谷素霊氏、医史学の石原保秀氏の7人で偕行学苑を設立した。以前は各派の足並みが揃わなかったため、二代目を中心に大同団結したもので、のち流派の問題が解消される礎となった。偕行学苑は36年より拓殖大学にて第1回の漢方医学講習会を開講、37年からは拓殖大学が直轄運営する正式講座となり、49年の第9回まで続いた。全体で約900名におよぶ受講者からは、のち漢方界・針灸界の要人が続出する。38年には前後4回の受講生が350名となった。これを契機に偕行学苑を母体とし、中国の葉橘泉・張継有・楊医亜各氏と連携、東アジア伝統医学の振興を目的に東亜医学協会を結成する。当協会は現在に続く。その機関誌『東亜医学』は39年に創刊され、41年に『医道の日本』誌と共に『漢方と漢薬』誌に合併、54年に『漢方の臨床』誌として復刊し、本2002年には第50巻を迎える。

揩行学苑創立5周年記念祝賀会
揩行学苑創立5周年記念祝賀会

40年、先生は竜野一雄氏と共に訪中、満洲国民生部の会議にて岡西為人氏と共に中医学と中医師の存続・発展策を建言し、採択された。41年に軍医として徴兵され、フィリピンを経てブーゲンビル島(現在パプアニューギニア国)の兵站病院に勤務、同地の生薬調査と応用も行い、薬品欠乏には針灸で対処した。敗戦後の46年に帰国し、郷里にて兄・格氏と診療に従事する。

漢方の本格的復興を主導

1950年、先生は同志と共に日本東洋医学会を創立する。当時100人未満だった会員は現在9000人を超え、91年には日本医学会への加盟が承認された。51年、東京都新宿区新小川町に温知堂矢数医院を開設、現在にいたる。54年には東亜医学協会を再発足させた。同年、東京医科大学薬理学教室で附子の薬理研究を開始、59年に「鳥頭、附子の薬理学的研究」により東京医科大学より医学博士の学位を授与された。同年には日本東洋医学会理事長に就任、同学会の10周年記念事業を担当する。

63年に門人の研究会・温知会を結成し、月例会を自宅にて開く。当初の会員5名が現在は220名を超え、お茶の水の湯島聖堂にて研究会を毎月開催している。68年に日本東洋医学会総会会長に就任し、創立20周年記念総会を主宰された。72年、北里研究所附属東洋医学総合研究所顧問に就任し、同所で診療を担当する。75年には先生の首唱により、明治期漢方断絶の悲劇を象徴する浅井国幹の顕彰碑が名古屋市の常楽寺に建立された。

漢方研究の向上と連携・国際化を推進

1979年、先生は日本医師会の最高優功賞を「東洋医学の発展に貢献した功労」により受賞。80年10月15日の大塚敬節氏ご逝去により、北里研東医研所長および日本漢方医学研究所理事長に就任された。81年、「日本における後世派医学史の研究」の論文により慶應義塾大学より文学博士の学位を授与される。また「東洋医学会の設立・発展と後進者の育成への貢献」により文部大臣から表彰された。

82年に日本東洋医学研究機関連絡協議会を創設し、研究機関の連携を推進。84年には『近世漢方医学書集成』全4期116巻の出版が完了した。当叢書は79年から大塚敬節氏と先生が編集を続けてきたもの。両先生のご蔵書を中心に、室町から明治前期までの漢方書原本170種以上が鮮明に影印され、漢方の伝統を現代に蘇らせた画期的な出版。当出版により漢方研究が以後著しく向上した。86年、北里研東医研が日本初のWHO伝統医学研究協力センターに指定され、同センター長を兼任する。同年7月に北里研東医研所長を在任5年10ヵ月にして退任。その退職金を日本医史学会に寄贈され、これを基金として同学会に矢数医史学奨励賞が87年に設置された。また86年にはフィリピン・マニラ市におけるWHO西太平洋地域のワークショップに招聘され、「明治期以後の民間教育の現況と展望」を講演。87年にも北京でのWHO伝統医学研究協力センター長会議に出席・発表した。

歴史を総括し展望を示す

1988年、先生は東亜医学協会創立50周年記念大会を主宰、内外功労者を表彰し、記念文集を発刊。90年には浅田宗伯生誕175年祭を開催。また曲直瀬道三顕彰碑建立委員会を組織し、題辞を揮毫した「初代曲直瀬道三顕彰碑」が京都・十念寺に建立された。

92年、国際伝統医薬シンポジウムにて「日本における伝統医学の変遷と展望」を講演。また経絡治療学会第20回総会にて「漢方・針灸この100年」、北里東医研創立20周年記念祝賀会にて「この20年、北里東医研と国際東洋医学」を講演される。93年、日本東洋医学会第50回関東甲信越支部会にて「21世紀への伝統医学」を講演。また曲直瀬道三没後400年忌法要にて経過を報告。94年、東京で開催された第4回アジア伝統医学国際会議にて名誉会長をつとめる。同年の木村長久氏50回忌にあたり、遺稿集の出版に協力。また発起人代表となり浅田宗伯翁百年忌法要を催す。98年、東亜医学協会創立60周年記念大会を主宰、記念文集を編纂する。

2000年4月15日、 第407回温知会にて「牛黄丸貼付療法」を特別講義。これが恐らく最後のご講演と思われる。02年10月21日(月)午後5時45分、老衰のためご逝去された。享年は満96、数えで98。同25日、文京区小石川の菩提寺・伝通院にて通夜、26日に告別式が行われた。戒名は仁光院道誉明寿居士。

2 研究業績

先生が発表された研究業績はとても多い。またその一覧を克明に記録・刊行されてきた。先生が卒寿を迎えられた1994年12月の記録までを総計すると以下のようになるが、2000年前後まで著述を続けられていたので、実際はもっと多い。

雑誌発表:計1713篇

漢方の臨床:868、日本医事新報:221、日本東洋医学会誌(のち日本東洋医学雑誌):98、 漢方と漢薬:91、和漢薬:91、医家芸術:57、温知会会報:38、医道の日本:29、東亜医学:21、わたしの健康:19、食生活:19、東洋医学(自然社、緑書房):18、漢方研究(小太郎漢方製薬):15、東洋医学(東洋医学国際研究財団):13、漢方:10、これから:9、漢方と針(北里東医研):8、東邦医学:7、活:7、現代東洋医学:7、日本医史学雑誌:6、診断と治療:6、主治医(カポニー産業):6、日本東洋医学連絡協議会会報:5、医譚:3、人間医学:3、エスエス通信(エスエス製薬):3、桔梗(建林松鶴堂):3、伝承と医学:2、診療と保険:2、東京都医師会雑誌:1、日本薬剤師会雑誌:1、日本東洋医学会専門医通信:1、その他雑誌の座談会と寄稿:25。

学会等発表・講演:計395回

日本東洋医学会:86、東京医科大学漢方医学講義:36、温知会:35、日本医史学会:26、日本漢方医学研究所:26、日本国際医学協会治療座談会:12、神農祭:11、日本国際治療学会:10、東亜医学協会:5、和漢薬シンポジウム(のち和漢医薬学会):4、日本薬理学会:3、日本薬局協励会:2、その他:139。

各種刊行物掲載:計173篇

各種記念文集:39、図録日本医事文化資料集成:29、日本百科大事典:8、医学選粋:7、近世漢方医学書集成:6、その他:84。

新聞掲載:計138篇

中部薬業新聞:21、漢方医薬新聞:20、読売新聞:16、毎日新聞:12、薬事日報:8、日経新聞:6、メディカルニュース:3、東京医大学生新聞:3、東京医大新聞:2、医研新報:2、その他雑誌・新聞:45。

その他

書評・推薦文・序文:112篇、ラジオ・テレビ出演:40回、映画出演:3回、追悼文:ご自分の集計から除外されているが、恐らく50篇を下らないだろう。

自著:20書

漢方医学処方解説(1940)、南方食用薬用有毒植物(1944)、増補改訂漢方後世要方解説 (1959)、臨床30年漢方治療百話(1960)、臨床35年漢方治療百話(1965)、臨床応用漢方処方解説(1965)、明治100年漢方略史年表(1968)、臨床40年漢方治療百話(1971)、ブーゲンビル島兵站病院の記録(1975)、臨床45年漢方治療百話(1975)、明治110年漢方医学の変遷と将来・漢方略史年表(1979)、臨床50年漢方治療百話(1981)、近世漢方医学史(1982)、臨床55年漢方治療百話(1985)、明治117年漢方略史年表(1986)、臨床60年漢方治療百話(1990)、明治122年漢方略史年表(1991)、矢数道明・漢方治験選集(1994)、臨床65年漢方治療百話(1995)、東亜医学協会60年の歩み(1998)。

共著:8書

漢方処方大成(大塚・木村・矢数、1940)、漢方診療の実際(大塚・木村・矢数・清水 1941)、増補漢方診療の実際(大塚・矢数・清水、1954)、漢方後世要方解説(矢数道明・有 道、1954)、経験漢方処方集(大塚・矢数・気賀、1965)、漢方診療医典(大塚・矢数・清 水、1969)、増補漢方診療医典(大塚・矢数・清水、1979)、現代家庭療法百科(矢数道明・ 圭堂、1979)。

分担執筆:21書、監修:14書

各書の書名等は以下の関連出版物を参照されたい。

関連出版物

矢数道明博士の労を犒う会記念文集(1974)、矢数道明先生日本医師会受賞記念略歴書・研究業績総目録(1980)、矢数道明先生喜寿記念文集(1983)、温知会会報・傘寿特集号 (1986)、米寿祝賀会記念矢数道明先生略歴書・研究業績総目録(1992)、卒寿祝賀記念矢数道明先生略歴書III研究業績総目録(1994)。

翻訳等になった著述

外国で翻訳された著書:19書(うち中国大陸7、台湾7、韓国4、アメリカ1)、外国雑誌へ翻訳転載された論文:14篇、点字・録音図書となった著書:5書。

3 国外との交流

先生は東アジア伝統医学の交流・提携を漢方振興のひとつの目的とされ、すでに1930年代から尽力されてきた。先生が実際に国外で交流されたのは40年の訪中が最初で、戦後は台湾・韓国での会議等にしばしば参加されている。日中国交回復以降は以下のように計8回訪中され、両国伝統医学交流の路を拓かれた。

第1回は1979年、香港・広州・安陽・北京を訪問、途中の武漢では洞庭湖付近の華容鎮で病死された弟・有道氏を慰霊された。第2回は80年、中国科学院の招聘で中国産附子の研究で上海・成都を訪問。第3回は81年、日中共同出版協定の調印のため北京に。第4回は82年、北京を経由して南陽市での仲景学術討論会に出席。第5回は84年の北京・中日友好医院開院式に列席、任応秋氏の葬儀にも参加された。第6回は85年、南陽の仲景廟に建立された先生揮毫の「張仲景敬仰之碑」の除幕式に出席。第7回は86年、中日友好医院主催の第1回中日中医学学術討論会に出席、また南京にて旧友の葉橘泉氏と初対面の念願を叶えられた。最後の第8回は87年、北京でのWHO伝統医学研究協力センター長会議だった。

この50年に及ぶ国際交流により、先生の外国人知友はきわめて多い。うち親交を重ねた方々に韓国の裴元植氏、中国の大陸・香港・台湾では葉橘泉、張継有、楊医亜、陳存仁、許鴻源、銭信忠、崔月犂、任応秋、胡煕明、呂炳奎、侯召棠、陳紹武、趙清理の各氏がおられる。なお先生は1987年に南京中医学院、88年に上海中医学院、93年に仲景国医大学、97年に北京中医薬大学、の各校より名誉教授に招聘された。

(真柳誠「略伝 矢数道明老師」『温知会会報』50号62-66頁、2003年7月)

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